週報から このページでは毎週週報に掲載する牧師コラムを紹介します。


2012年7月1日 ヨナタンとダビデの友情(サムエル記上20:24b-42)
 (協力牧師 藤田久雄)

わたしたちは「友情」という言葉を聞くとき、どんなことを心に思い浮かべるでしょうか。わたしは武者小路実篤の『友情』という小説をすぐに思い浮かべますし、あのゲーリー・クーパー主演の映画『友情ある説得』の情景を思い出します。共に高校生の時に出会ったものです。特に映画は印象に残っています。主人公を演じるクーパー一家は敬虔なクェーカー教徒です。時は正に南北戦争が勃発して、戦争に加担しないという一家からもやむなく長男が出兵し、負傷してしまいます。カチカチの信仰者というわけではない一家の、しかし暴力を否定する信仰に裏打ちされた生き方がしっかりと演じられていました。

さて、聖書の物語はヨナタンとダビデの友情についてです。

ダビデが勇敢にゴリアテと戦って打ち勝ち、サウル王にその報告を終えたときに、ヨナタンとダビデの間に友情が生まれました。「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(上18:1)とあります。ヨナタンはその時すでにサウル王の長男としてペリシテ軍との戦いに出て素晴らしい働きをしていましたから、王もその家来たちも、サウルの後継者はヨナタンだと考えていたでしょう。一方、ダビデは地方の羊飼いエッサイの末息子で、ゴリアテとの戦いまではこれといった仕事をしていたわけではありません。しかし、そのようなダビデをヨナタンは初対面から受け入れたのです。なぜでしょうか。

ヨナタンの戦いの方法は、まず主に祈りをささげ、主に全てを委ねて進み、勝利を得ました。ヨナタンは巨人ゴリアテを倒したダビデに、自分と同じように主の加護があったと考えたのでしょう。ヨナタンとダビデの友情は、主なる神さまへの信仰によって結ばれたのです。友情の絆は信仰だったのです。

ヨナタンはダビデに「着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」(上18:4)ほどですから、王位を継ぐのは自分ではなくダビデだと分かっていたのでしょうか。それともアマレク人との戦いの処理を徹底しなかったサウル王が王位から退けられたのを知っていたのでしょうか。

ダビデは友情の誓いを守り、サウル王家滅亡の後に、ヨナタンの子メフィボシェトを探し出し、サウル家の遺産をすべて与え、ダビデの食卓で王子のように取扱い共に食事をしました。


7月8日 神学フォーラムに参加して (主任牧師 東風平巌)

6月28日から7月3日まで、東北地方へ出張に行きました。最初の3日間は仙台で行われた日本バプテスト連盟が主催する「東日本大震災と原発事故が問いかける宣教・神学フォーラム」に出席し、残りの日程で岩手県遠野市にある同連盟のボランティアセンターを訪ねました。

様々なトピックについて話し合われた中で、私が特に考えさせられたのは、私たちキリスト者が原発事故をどう捉え、これからどのようなスタンスでそのことに向き合っていけばよいのか、についての議論の場でした。福島県の3つの教会の牧師から問いかけがなされましたが、私自身の認識の甘さを反省させられるものでした。

政府は事故から1年もしないうちに、「原発事故は収束した」と宣言し、何の保証もない「安心」「安全」を絶えず口にして、福島県に住む人々がこれ以上県外に流出しないように「情報操作」を行っています。「情報操作なんて大げさな。」「いくら頼りない日本の政府といえども、そこまではしないでしょう。」そう思っている日本人がなんと多いことでしょう。

しかし、私たちは本当に「蛇のように賢く」なければなりません。何が真実で確かなことなのか、絶えずアンテナを張り巡らしていなければなりません。私たちが懸念しなければならないことは、この日本政府の偽情報に振り回され、結果として適切な行動を取れなかった人々の中に、今後数年の間に明らかな健康被害が出てくることです。その中には教会の兄弟姉妹も含まれている可能性があるのです。原発周辺の教会の苦悩は私たちの想像以上のものがあります。今でも罪責感と不安を抱えながら毎日を過ごしていることを私たちは覚えなければなりません。対岸の火事と捉えるべきではないのです。

沖縄でも同じような情報操作が行われています。最新型軍事輸送機オスプレイの普天間基地配備計画です。原発事故の隠ぺいと全く同様に、ここでも日米両政府が盛んに「安全」を強調しています。本当にそうでしょうか?原発も安全と言われていたのに、取り返しのつかない事故を起こしました。摩訶不思議です。

教会は政治団体ではありません。私自身過度に政治的アピールはしないつもりです。しかし一人一人は政治に対しての責任があります。今一度私たちの立つべき位置を確認してみましょう。


7月15日 障がいを持つ方々と共に (主任牧師 東風平巌)

私の子どもたちも通っている高良小学校の1年生に湯地駿羽(はやと)君という男の子がいます。湯地君は人工呼吸器を24時間肌身離さず着けていなければならないような重い病気を持っています。特別な車椅子に座り、付添であるお母さんやヘルパーの人と共に普通学級に通い、他の子たちと同じように授業を受けます。

湯地君が特別支援学級ではなく地域の小学校に通っているということはとても大きな意味があります。同じ学校に通う子どもたちが障がいを特別視しないで、一緒に生きていくことを自然に覚えることができるようになると思うからです。障がいを持つ子たちは他の子たちと何ら変わらない価値ある存在です。

もちろん私たちの社会では、そのような方々に対する様々な配慮が必要です。バリアフリーの街づくりや障がい者優先の駐車スペースの確保など。そのような方々が安心して暮らせる地域であってほしいものです。しかし、差別化が極端になると障がいを特別視する環境を作りやすいことも事実です。結果として「健常者」対「障がい者」という余計な構図を作ってしまいかねないのです。

私が青年海外協力隊の隊員としてザンビアにいた頃に、いつもゴールキーパーとして他の高校生とサッカーをしていた片足のない男生徒を思い出します。彼のことを他の友人たちは何一つ特別視せず、ありのまま接していました。障がいを持っている人がごく自然に他の人たちの中に溶け込んで生きていることに私は感銘を受けたものです。

イエスはユダヤ教的価値観によって当時差別の対象となっていた目の不自由な人や身体に重い障害を持った人たち、思い皮膚病を患っていた人たちを特に憐れまれました。彼らが当時信じられていたような神の呪いを受けているのではなく、神に愛される人々であることを教えられたのです。心身に障がいがあるかどうかは、神の御前にはどうでもいいことなのです。神はありのままの私たちを愛されます。

今日の聖書はダビデ王がサウルの孫であり足の不自由なメフィボシェトを寛大に取り扱う物語です。メフィボシェトの置かれている立場や当時の価値基準からすれば、驚くべきダビデの決断です。神を畏れるダビデの行為を通して私たちの考え方や信仰が神の基準に沿っているか改めて考えてみましょう。


7月22日 裁きと赦し (主任牧師 東風平巌)

人は必ず間違いを犯します。サッカーでPKを外したとか、カラオケで音程が狂った程度の間違いならともかく、人生を変えてしまうような間違いというのも少なくありません。自分一人の間違いで済めばいいのですが、間違いというのは大抵他人を巻き込んでしまうものです。クリスチャンも牧師もその点で何ら変わりはありません。

私たちは必ず間違いを犯す罪人であることを自覚している必要があります。しかし、その事実をもって「みんなお互い様だから裁かないで赦し合いましょう。」という結論を持ち出すのは早とちりです。特に人に深い傷を与えてしまったような罪や過ちは、深い反省と悔い改めを背負って生きていく覚悟が必要です。クリスチャンであればなおさらです。

他人によって大きな傷を負わされた人を前に、「相手を赦しましょう。憎しみは罪です。」などと言って安易に聖書を振りかざしてしまうと、まるで傷を負わされた人の側に非があるかのような誤解が生じ、かえって傷が深くなることもあるのです。

イエス様が「裁くな。あなたがたも裁かれないためだ。」と言われたのは、いつも高慢な態度で人を見下し、自分をさも偉い人であるかのように振る舞っているパリサイ人や律法学者を意図してのことでした。「あいつらは全く罪だらけだぜ」と他人を見下げる宗教家たちの裁きの態度に対し、弱い者の立場から主張したのがイエス様であったのです。イエス様は常に社会的弱者の側に立って彼らを擁護したのです。

いじめを受けて自殺をした中学生のことが連日報道されています。この報道を見て簡単に「裁いてはいけない」とか「赦すべきだ」と口に出すことが出来ないことは誰でも理解できるでしょう。正義が必要です。正当な裁きは非聖書的であるどころか、イエス様の御心に適ったことなのです。

その上で私たちがどうしても知らなければならないこと。それが他でもなくイエス様の十字架です。全く罪と無縁であったイエス様が、憎しみや怨念や深い傷のゆえに苦しみ呻いている人々のために、不条理にもその身を投げ出したのです。そこまで徹底して低くなられたイエス様の愛こそが、私たちの人生に光をもたらす道なのです。この愛に辿り着き、罪を赦され傷を癒された者が、初めて「赦し」という言葉をしっかりと受け止められるのではないでしょうか。


7月29日 呪いと信仰 (主任牧師 東風平巌)

聖書には「呪い」という言葉が比較的多く使われています。あまり耳触りのいい言葉ではありません。それどころか、とてもおどろおどろしい響きを持った言葉です。しかしまた、この呪いという概念は私たちの信仰とも密接な関係を持っています。

ダビデが息子アブサロムにその王位を狙われたとき、アブサロムの元からサウルの一族の一人シムイが出てきて、ダビデを激しく呪います。王に面と向かって呪いの言葉をかけるばかりか、石を投げてゆく手を阻むなど妨害行為をします。しかし、ダビデはシムイの呪いは神が許されているからだと受け止め、なすがままにさせます。王であれば一喝して追い返すこともできたはずなのに、いったいどうしたのでしょう。

いろいろな意図が隠されていますが、ダビデが言った「神がシムイに呪わせているのだから」という考えは本当に当たっているのでしょうか。私にはそうは思えません。サウル王家には手を出すべからず、というダビデがかたくなに守ってきたルールを貫き通すための詭弁のように聞こえます。しかし、ダビデがその身にあえて呪いを受けたという事実はとても重要です。これは来るべき救いのひな形ともいえるからです。

私たちは罪を犯すことで死という呪いを受けてしまっている存在です。これは肉体的な死ばかりか、私たちの「霊」あるいは「魂」の死をも意味します。魂の死は永遠の滅びであり、その原因は神との断絶です。私たちが「生きる」ために必要なのは神との関係の回復です。しかし、それは私たちの側からはどうすることもできないものです。

イエス・キリストは私たちが神との関係を回復するために、自らが十字架に掛かって死んでくださいました。私たちにはできなかったことをイエスが成し遂げてくださったのです。イエスの死は実に私たちの罪の呪いをご自身が一身に引き受けてくださった結果なのです。

誰が他人のために呪われてもいいと考えるでしょうか。呪いなんて怖くて私は結構です、と誰もが思います。しかしあなたのために呪われて死んだお方がおられます。それがイエス・キリストです。イエス・キリストこそが、あなたが死の呪いの束縛から解放されるために死なれたお方であることをどうぞ覚えてください。もはや私たちは呪いの下にはいないのです。

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