週報から このページでは毎週週報に掲載する牧師コラムを紹介します。


2012年6月3日 シリーズ旧約聖書の難問にメス!(その3)
 (主任牧師 東風平巌)

旧約聖書における戦いの記事、特に「神が命じられた」戦いについて改めて考えます。

聖書は、神が罪ある人間の歴史に関わっておられることを記録した書です。例えば「主の戦い」や「万軍の主」という表現は、神が「戦い」という人間の罪深い性質をも用いて、私たちと関わりを持っておられることを示しています。一夫多妻制もまったく同様ですが、これら人間の欲と不完全性が引き起こす人間社会の制度は、それ自体を神が是認しているとか、神の御心であると考えることはできません。歴史の中で神がそれらの不完全な制度や社会状況を用いられたにすぎないのです。しかも、人間の言語で神の無限性や神秘性を語り尽くすには限界があります。誤解を恐れずに言えば、「主の戦い」は神が参与した出来事が不完全な人間の言語で記されているゆえ、その本質を伝えきれていないのです。(神の霊感を受けて書かれてはいても)

一方、イエス・キリストは神が私たちの歴史により直接的に関わった最大のしるしです。言語で伝えるよりはるかに正確に神の本質をイエス・キリストは伝えていえます。イエス・キリストという光に照らされることで、旧約聖書では不明瞭であった言葉や表現が初めてはっきりとした意味に「翻訳」されるのです。

ピーター・クレイギは「聖書と戦争」という著書で次のように語っています。「イエスに対する信仰において、神の国を建て上げようとすることのうちには、暴力についての新しい理解が隠されている。(中略)古い王国は暴力の行使によって確立されたが、こんどの、新しい神の国は、暴力を受けることによって基礎づけられるからである。戦士であった神は、いまや十字架刑に処せられる神となった。神はみずから、圧倒的な人間の暴力を正面から受けて立つことになられたのである。」(p.158)

十字架のイエス。これこそが私たちの見上げるべき姿です。聖書のすべてはこの方を指し示し、旧約聖書の律法やそこで語られている歴史も、この十字架を通して始めて、その本来の意味が理解されうるのです。神は現代のあらゆる種類の戦争に、十字架のイエスを通して「NO」を突き付けています。聖戦思想はもはやありえないのです。イエスによって購われた私たちは誰にも勝ってこの地上に平和を希求するものでありたいですね。


6月10日 主に仕える下働き (主任牧師 東風平巌)

東日本大震災がきっかけで、ボランティアという言葉が頻繁に使われるようになりました。ボランティアの中には純粋な動機で非常に貢献度の高い活動をする人が数多くいて、震災の復興にはこれらの人たちの草の根的な働きが欠かせません。

一方で、美談として取り上げられやすいこういった奉仕活動に参加する人は、時に「注目されたい」「感謝されたい」という下心や「いいことをした」という満足感に浸りたいがためのいくばくかの「不純な」動機を持っている場合もあるように見受けられます。結果として目立つ活動には志願者が集まりやすいのに、誰の目にも留まらない些細な活動は無視されたまま、ということが生じたりします。

教会での奉仕はどうでしょうか。先週の礼拝後には多くの兄弟姉妹が庭の清掃や草むしりの奉仕をしてくださいました。おかげで草が伸びて見苦しかった庭が随分ときれいになりました。全員による奉仕ですね。

礼拝でも数多くの奉仕があり、会衆の前に立って行うような目立つ奉仕もあればそうでないのもあります。目立つどころか、実は誰にも気づかれず、誰の目にも留まらないところで行われている奉仕もあります。そのような奉仕の一つを一生懸命されているある姉妹は、汗だくになって働いた後「誰も気づかないはずね」と笑っていました。

もしかしたら本当に他人は気づかないかもしれません。でも間違いなく神様は見ておられます。なぜなら、これぞ「主に仕える」働きだからです。サムエルは幼い時から神殿で主に仕えていましたが、その働きは「下働き」でした(サムエル記上2:18)。まさに誰にも感謝されないような地味な奉仕です。でも神様はちゃんとそこに目を留められました。小事に忠実なサムエルは、やがて国家の命運を握るような大事を任されるようになったのです。ヨセフにしろダビデにしろ、神に用いられた器の人生をよく調べて見ると、みな地味な、しかし忠実な下働きが後の偉大な働きの基礎となっているのです。

主に仕える働きは様々です。それは必ずしも華やかなものばかりではありません。小さな目立たない働きも同じように主の目には尊い働きです。「主に仕える下働き」は素敵です。それは主にあって必ず報われる働きなのです。


6月17日 王を求める心 (主任牧師 東風平巌)

サムエル記上8章1-21節

イスラエルの民は、周辺の国々には王様がいること、その王様によって国が治められているのを知り、「わが国にも王が欲しい!他国のように安定した政治と強い軍事力が必要だ!」と叫び、預言者サムエルに迫ります。それに対し、サムエルは民の要求が「悪」であることを察知し、神に祈ります。すると神も彼らの要求がご自分の御心に沿ったものでないことをはっきりと示します。

王政という政治制度は悪いものなのでしょうか。実はここではそのことを問題にしているのではありません。イスラエルは神との契約関係にある特別な国だったのです。神が王であり統治者であったので、そのことを否定し別の何かを求めることは偶像礼拝にも等しいことだったのです。しかし神は敢えて民の要求を呑むようにサムエルに伝えます。決して神がイスラエルの王を肯定したわけではないのです。神ならぬものに頼ることがどういうことであるか、敢えてイスラエルに示そうとされたのです。ここに神の愛と忍耐があります。実際にイスラエルは王様という新しい統治者を立てることでこれまで以上に苦難の道を歩み始めることになります。

今週は慰霊の日を迎えます。各地で追悼行事や沖縄戦を考える催し物が開かれます。日本はかつて神ならぬものを王、いや神として祭り上げ、それを全国民に強要し、その結果沖縄の一般住民を始め多くの犠牲者を出しました。今軍事輸送機オスプレイの沖縄配備問題が取りざたされていますが、より強いもの、便利なものは一見私たちを守ってくれるように見えても、必ずどこかで犠牲を強いることになります。原子力発電所も同じです。「生活を守るために再稼働が必要だ」という言葉ほど皮肉に満ちた言葉はありません。

私たち一人一人はどうでしょうか。私たちの生活に神を求める以上に、「強いもの」や「安定したもの」や「便利なもの」つまり王様を求めてはいませんか?神はそれを許されるかもしれません。しかし、それらで私たちの心が満たされるようなことがないように注意しなければなりません。私たちを満たしてくださるのは神だけです。神に人生をお任せし、導いていただきましょう。


6月24日 ありのままをぶつける (主任牧師 東風平巌)

サムエル記上17章に登場する少年ダビデの物語は、教会学校に通っていた紅顔の美少年(?)の私を興奮させたものでした。当時の大好きな子どもさんびかはもちろん66番です!「♪おそいくるライオンとらえ、攻めてくるゴリアテたおす、神の力を身につけて・・♪」

勇ましくて優しく、信仰も篤いダビデは、聖書の登場人物中間違いなく最高のスーパーヒーローです。ところが、少年にして巨人ゴリアテを倒したダビデは、その後確かにイスラエルの王として素晴らしい手腕を発揮するものの、その人生は苦難と恐れと絶望の連続です。人生後半は自分の息子からも命を狙われるようになります。彼の作とされる詩編の数々を読むと、誰にも明かせない彼の心の叫びが聞こえます。

ダビデが勇敢にゴリアテに立ち向かっていく姿は、純真な信仰の姿であると同時に、怖いもの知らずの若造の所作であるようにも思えます。ゴリアテとの戦いは彼の長い人生の中に起こる幾多の戦いの幕開けに過ぎませんでした。彼の人生にはゴリアテ以上に多くの「巨人」が立ちはだかり、彼の信仰に勝負を挑みます。王位継承の問題や権力闘争、人間関係や女性問題など、極めて俗っぽい事柄に巻き込まれるのです。

こうして見てみると、ダビデは実はどこにでもいる人間の一人であり、ごく普通の悩む信仰者です。ただ彼が素晴らしかったのは、立派な姿を見せようと虚勢を張るのでなく、常にありのままの自分でいようとしたことです。悩みや苦しみを隠すことなくとことん神にぶつけ、そのままの自分を神の前にさらけ出したことです。

幼い頃賢くて親の言うことをよく聞き、音楽やスポーツに秀で、「将来は大臣か」ともてはやされる時期は一瞬です。若いころは順風満帆のように見えた人生が、社会の荒波の中で否応なしにもみくちゃにされ、気付いたら何のことはない、ただの人、いやそれどころか「負け組」と称される側にいた、なんて話は私たちの周りに沢山転がっています。

「本当はこんなはずじゃなかったのに・・」そう思うことはありませんか?神様はそのように落ち込む私たちをありのまま受け止めてくださいます。私たちはこんな姿を誰にも見せたくない、と思うかもしれません。でも神様にはそのようにする必要はありません。ありのままをぶつけていいのです。ダビデがまっすぐ神様に向かっていったように、私たちもそのままの姿ですべての問題を神様に委ねていきましょう。

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