週報から このページでは毎週週報に掲載する牧師コラムを紹介します。

 

2013年3月3日 苦しみの中で体験する神への信頼  主任牧師 東風平巌

心に傷を受けたことのない人は一人もいないでしょう。程度の差はあっても、他人や身内から受けた傷、不慮の事故や思いがけない出来事を通して受けた傷などを多くの人が持っており、それはなかなか簡単には癒されないものです。

クリスチャンは簡単に傷を癒すことができるのか、と言えばそうとも言えません。クリスチャンもそうでない人と同じように様々な困難に直面し、人間関係に悩み、落ち込み、挫折します。そして神様への信頼を失うこともあります。

詩編22編2節(新共同訳)に「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉があります。次々と災難が身に降りかかり、命の危険に直面した詩人が詠んだ歌です。絶望にも満ちた重苦しい言葉です。この詩編には続く節にも敵に取り囲まれている状況、襲われている状況が次々と比喩的に語られています。

しかし一つ気づかされることがあります。それは絶望的な状況の中でも、この詩人は神に向かって自分の状況を訴えていることです。クリスチャンとそうでない人の違いは、まさにそこです。神に向かって訴えること、自分の思いをぶつけることができるのです。神はその訴えを受け止めてくださる方です。聖霊は「弁護者」とも言われているように、私たちの側に立ち私たちを弁護してくださいます。

この詩編22編はイエスが十字架の上で引用された言葉としても有名です。苦しみの極みでイエスは父なる神に向かって叫ばずにはいられなかったのでした。同時に、イエスは自分の身に起きていることが聖書の預言の通りであることを知っていました。まさにこの22編に書かれている出来事をイエスは体験しました。

もう一つ大切なことがあります。それはこの詩編は神への信頼の言葉と讃美で結ばれていることです。苦しい絶望的な状況の中においてさえ、最終的には神が救って下さることを忘れていないのです。あの恐ろしい痛みと苦しみさえ和らいでいれば、イエスは十字架の上でこの詩を最後まで朗読していたかもしれないと私は思います。そして父なる神への信頼を表していたのではないかと思うのです。

私たちのすべてをそのまま受け止めてくださる神に目を向けましょう。イエスが苦しみの中叫ばれた言葉に目を留めてみましょう。


3月10日 あれから2年  主任牧師 東風平巌

2011年3月11日、私たちが決して忘れることのできない日です。あの日を境に日本は大きく変わりました。遠く離れた沖縄では地震や津波の被害、放射能汚染の直接の影響はなかったものの、誰もその未曾有の災害に無関心ではいられませんでした。

私はその年の11月から2か月間、津波や火災で大きな被害を受けたくさんの犠牲者を出した宮城県気仙沼市にボランティアコーディネーターとして派遣されました。現場で目にした惨状や耳にした被災者の話を決して私は忘れることはできません。何とか瓦礫の山を片付け、再開にこぎつけたお店やレストランも確かにありましたが、海岸近くでは津波や火災の爪痕が生々しく残されたままでした。

私が滞在していた日本バプテスト同盟気仙沼教会は教会員の半分が被災をしました。家を失った人、職場が全焼した人、やっとのことで迫ってくる津波から逃れた方たちがいました。流されていく人に手を伸ばして引き上げようとしたのに力及ばず失敗し、そのことが毎日夢の中に現れて苦しんでいる方もいました。

あの日流された人、死んで行った人は何が悪かったのでしょう。彼らは神様を信じていなかったから罰を受けたのでしょうか。彼らがイエス様を信じるクリスチャンであればその災害から逃れられたのでしょうか。

事実はそんなに単純ではありません。教会も被災し、流されました。クリスチャンの中にも犠牲になった方がいました。住宅を流され今なお仮設住宅に暮らす牧師もいます。ある人は生かされ、ある人は助かったのです。その命運を分けた理由は神様以外誰にもわかりません。そして忘れてはならないことは、今苦しんでいる人たちは助かった方の人たちであるということです。気仙沼でも多くの人たちが助かったことを申し訳なく感じていることに私は衝撃を受けました。彼らが受けた痛みの大きさは私の想像を超えていました。

復興は始まったばかりです。東北が再生するためには私たちの支えと祈りの手が必要です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)と聖書は語っています。今なおかの地で涙を流し将来に希望を見いだすことが困難な兄弟姉妹のために祈り続けましょう。


3月17日 キリストのために  主任牧師 東風平巌

使徒パウロはイエスと出会い、これまでの生き方から完全に方向転換し、全力を尽くしてイエスを語り伝えました。鞭で打たれようが、投獄されようが、死に直面しようが、パウロにとってもはやこの世的価値観は取るに足らないものとなり、キリストだけが彼の人生に意義をもたらすものとなりました。パウロにとって生きるとは、キリストに生きることでした。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)

誰もがパウロのように真っ直ぐに突き進めるわけではありません。しかしパウロと同じように、「私はキリストと共に生き、キリストと共に死ぬのだ」という決心は大切です。それは人生の価値観をキリスト中心の価値観にするということです。地上で与えられた責任は全うしなければなりませんが、キリスト者はすべてはっきりとイエス・キリストという価値観に生きることが望まれます。

多くの人々はすぐに消えてしまうものに人生のよりどころを置いています。お金、健康、家族、趣味、仕事・・・。それらは人生に必要なものですが、永遠に続くものではありません。私たちを一時的に幸せにしますが、いつ無くなってしまうかわかりません。それらを土台としていると、それが無くなった時必ず問題に直面します。

聖書はいつまでも残るものは「信仰」「希望」「愛」の3つで、そのうち最も偉大なものが「愛」だと言っています。本物の愛はキリストを通して与えられます。これは決して消えることのないもので、たとえ地球が滅びることがあっても永遠に続くのです。

キリストを人生のよりどころとする生き方は、つまるところキリストの愛に生きるということです。それはパウロが宣言したように、「生きるもよし、死ぬもよし」という超肯定的な人生観です。この世の価値観ではなく天国的価値観であり、これに勝る生き方はありません。

人生の様々な問題に翻弄されていませんか。人生の意義を見失っていませんか。変化しやすいものを心のよりどころとしていませんか。

今一度、イエス・キリストに目を注ぎましょう。イエス様は私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださいました。究極の愛がここにあります。この愛に生きることこそ、私たちの人生の最大の目的なのです。


3月24日 卒業生保護者代表挨拶文から(3月21日高良小学校卒業式にて) 主任牧師 東風平巌

〜前略〜

皆さんの周りを見渡してみてください。今日卒業していく仲間達の顔です。一人一人違いますね。

高良小学校にこんなにたくさんの人たちがいるのに、誰一人として同じ顔の人は存在しません。それどころか、世界の71億人の人たちの中で、あなたと全く同じ顔をしている人は誰一人いないのです。

顔だけではありません。みなさんの小さな指先に刻まれている指紋でさえ、71億人みんな違うのです。本当に不思議なことです。

あなたたちは、一人一人違う人格と個性と能力をもって生まれてきたのです。お父さんやお母さんとも違うのです。あなたの代わりになる人は世界中に誰一人としていません。あなたはあなたです。世界一素敵なあなたです。たった一人の最高のあなたです。このことを是非忘れないでください。

もう一つ大切なことがあります。あなたという存在は一人だけれども、あなたは一人では決して生きていけないということです。

これまでの12年間も、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、学校の先生方や仲間たち、そのほか大勢の人たちに支えられながら生きてきました。私たちは絆で結ばれているのです。

2年前の3月11日に東日本大震災が起きた時、大勢の人たちが命を失い、家や財産や家族や仕事を失い、大変な苦しみや悲しみを経験しました。その時に「絆」という言葉が日本全国で何度も何度も聞かれました。日本や世界中の人たち一人一人が手を差し伸べ、寄り添うことで生まれた絆の尊さを私たちは知ることができました。

あなたたちがこれから中学生になり高校生になり、一つずつ大人になっていく時、今まで経験しなかった沢山のことを経験することでしょう。その経験は楽しいことばかりではありません。時には苦しいことや辛いこともあるでしょう。その時にあなたを支えてくれるのが絆です。繋がっていることであなたはどんなことでも乗り越えてゆくことができるのです。あなたは一人ではないのです。みんながあなたを支えてくれます。

〜後略〜


3月31日 Happy Easter! 主任牧師 東風平巌

イースターおめでとうございます。イエス・キリストは十字架上で私たちの罪の身代わりとして死なれましたが、生前予告していた通りに3日目の朝よみがえられました。弟子たちをはじめとする多くの人たちの前に復活の体をもって現れ、みなを驚かせました。あの日、墓は空だったのです。墓は私たちの絶望の象徴です。しかもすべての人が生涯の最後に行きつく場所です。

イエスはその絶望を打ち砕かれました。死を打ち破られたのです。イエスの信仰に生きる私たちも同じように復活します。「私を信じる者はたとえ死んでも生きる。」とイエスご自身が語った通りです。

もう一度言います。イエスを信じる者は復活します!そして朽ちない体をいただいて主と共に永遠に生きる希望を持つのです。この信仰に生きる者となりましょう。ハレルヤ!


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