週報から このページでは毎週週報に掲載する牧師コラムを紹介します。

 

2013年1月6日 誘惑  主任牧師 東風平巌

新年がスタートし、様々な思いでこの時期を過ごされていることでしょう。その最初の礼拝のメッセージは「誘惑」についてです。新年早々あまり耳にしたくない言葉かもしれません。

誘惑は読んで字のごとく、誘って惑わす状況を指します。誰が誘って惑わすのでしょう?もちろん誘惑の内容にもよりますが、一般的には、性的な誘惑であれば魅力的な女性や男性であり、食欲であれば美味しそうな食べ物です。お金や貴金属や素敵な洋服などが誘惑する場合もあります。つまり私たちの欲求を刺激する「物」や「人」が主語になるのです。

しかし聖書は誘惑の別の面を語っています。それはたとえ物や人が誘惑しているようであっても、目に見えない霊の世界で悪魔が背後にいるということです。私たちが生きていくうえで必要な欲(食欲や性欲など)そのものが問題なのでは決してありません。その欲を刺激して私たちに罪を犯させようとする霊的な働きかけがあるのです。

創世記においてエバが蛇にそそのかされた状況が、まさに誘惑が罪を生み出す状況とその背後に存在する邪悪な悪魔について物語っています。悪魔は狡猾です。私たちよりはるかに賢いです。光の天使を装います。御言葉さえ利用します。私たちが予想もしない方法で私たちを誘惑し、罪を犯させ、罪の虜にし、神様から引き離し、祝福を奪います。

しかし、誘惑と試練を混同してはいけません。神様は私たちを誘惑することはなさいませんが、試練は与えられます(ヤコブ1:12−15)。誘惑は私たちを罪に陥れるためのサタンの罠ですが、試練は私たちが神に近づくために神が許された訓練です。また、私たちの身に起こる様々な状況をすべてサタンや神のせいにする極端な二元論にも注意が必要です。私たちはみな、自分が取る行動に対して責任があります。誘惑を退けるのも試練を乗り越えるのも、結局は私たちがその状況を神に委ねる信仰を通して、自分たちが選び取っていくものなのです。

あなたは今、誘惑を受けていますか?イエス様が対処なさったように、誘惑に打ち勝つ最大の武器は御言葉です。「もろ刃の剣より鋭い」神の言葉を心の中にしっかりと蓄えましょう。


2013年1月13日 私たちは世の光  主任牧師 東風平巌

光というのは大変不思議な性質を持っています。物理学の世界では、光は電磁波の一種であることがわかっています。もう少し専門的に言うと、多くの波長がある電磁波の中でごく狭い領域の波長のものだけが光として私たちの目に認識されるのです。

私たちに目があるからこの世界が見えるのではありません。光が存在するから見えるのです。光がなければ、世界は闇に閉ざされたままです。そうなると私たちは漆黒の世界の中で生きることになります。世界には目の不自由な方々も多くおり、そのような人たちがみな不幸な人生を歩んでいるわけではありませんが、それは彼らの手引きができる健常者の存在があるからです。彼らの代わりに目となってくれる人がいるのです。

一方で、肉体的な目は正常に見えていても、心の目(霊の目)が閉ざされていて大切なものが見えていない人たちがいます。ヨハネによる福音書9章には、パリサイ人たちと視覚障害を持つ男性、そしてその男性の目を癒されたイエスという三者の会話の中に、本当に「見える」とはどういうことかが明確に語られています。

聖書は一貫して私たちの信仰の目が癒されること、つまり光である主イエス・キリストを認識し信じることこそが人生の中で最も大事であると述べています。有名なAmazing Graceの一節「かつては盲目であったが今は見える」(原文の直訳)を思い出しますね。

ところで、イエスはご自身を指して「私は世の光である」と語られましたが、別の場面ではイエスに従う人たちを指して「あなた方は世の光である」と言われました。イエスは太陽のような光源そのものですが、私たちは本来輝くはずのないものがイエスの光を受けて輝いている、いわば月のような存在です。真昼のようにすべてを輝かすことはできなくても、夜道を照らすことはできます。街灯もないような暗いところでは、夜空に輝く月の光がいかにありがたいものであるか、経験なさったことのある人も多いでしょう。

もしかしたら、月のような輝くこともできないかもしれません。それならば、ろうそくの光はどうでしょうか。夜道は無理でも部屋の中を照らすことはできます。文字を読むこともできます。私たちに与えられた範囲で輝き続けることができるということが大切なのです。


2013年1月20日 何故祈る?  主任牧師 東風平巌

聖書が祈りの重要性について何度も語っていることはよく知っていますが、何故祈るのか、ということについて研究をした人はあまり多くないように思います。「そんな哲学的な問いに答える時間があれば、その時間を祈りにあてなさい!」と一喝されそうですね。

しかし考えてみてください。「あなたがたの父は願う先からあなたがたに必要なものをご存じである。」とイエス様がおっしゃっています。祈らなくてもわかっているなら何故祈る必要があるのか、不思議だと思いませんか。

その問いに対してクリスチャンジャーナリストのフィリップ・ヤンシーはその著書「祈り」の中で「イエスが祈るからだ」と答えています。父なる神と最も近しい関係にあり、かつ父のみ心を完全に理解されている御子イエス・キリストでさえ祈る必要があったのです。右も左もわからない不完全な私たちであれば、なおのこと神に導いていただくために祈りが必要と言うわけです。

結局のところ、祈りを単なる願いを聞いてもらうための手段としか考えていないことが混乱の元かもしれません。祈りとは父なる神との親しい交わりです。子が父を慕って日常の些細な出来事さえも話し、それに対して父が愛情いっぱいにうなずいて聞いている、というイメージでしょうか。そこには単なる自分の願望の押し付けというものは見られません。父と子の絆を深めあうツールとしての語りかけと応答があるのみです。

私たちが捧げるべき究極の祈りというのは、もはや「聞き入れてもらえる、もらえない」という範疇さえも超え、どんな言葉で祈るかという思いすらどうでもいいような、ただ神の臨在の中で神を思い、ありのままの自分をさらけ出すだけ、というのが答えかもしれません。そのような思いでいつも祈れる人はなんと幸いでしょうか。

私たちは何かと雑音の多い世界に生きています。神の声を聞きとるのが困難な世の中です。でもそれは神がおられないのではありません。祈りを聞いていないのでもありません。神はいつもそばにいて、私たちがチャンネルを合わせさえすれば出会うことができるのです。私たちが言い訳を並べたて過ぎるのです。今一度、一人一人が神との交わりの中に身を置き、親しく語りかけてみてはいかがでしょうか。


2013年1月27日 自然界に目を向ける  主任牧師 東風平巌

心配って何故するのでしょうか。それは私たちが人間だからです。人間だけが過去を振り返り、現在を認識し、将来を思うことができるからです。その過程の中で起こる失敗や罪、将来に対する不安や恐れが洪水のように私たちの心になだれ込み、心配という種はどんどん芽を出し成長していきます。

通常、心配はそのもとになっている問題が解決されれば自然に枯れてなくなるものですが、時には中々頑固に根を張っているものがあり、気付いたら心の中が心配に満ちているということがあります。そうなると、「人間だから心配するのだ。」なんていう哲学的な答えは答えになりません。日常生活に悪影響を及ぼし、心身が弱り、結果として神への信頼も信仰も揺らいでしまうものです。

イエス様が「思い悩むな。」とマタイ6章25節以下で言われていることは、私たちが普通に経験する一時的な心配のことではなく、完全にふさぎこんでしまい、心が心配で一杯になっている状態ではいけない、ということを指しているのでしょう。そうならないためのヒントは「空の鳥」「野の草」に目を留めることです。

一見、問題の解決にならないような気がしますが、そこにイエス様の意図があります。自然界の美しさ不思議さは時として私たちの目を奪います。そこには神の創造の神秘さと造形美があふれ、人間の知恵では決してまねのできないオーラがただよっています。一つ一つが神の愛によって造られた作品だからです。私たち人間の小ささを強烈に意識させます。

ところがイエス様は私たちがこれらよりはるかに価値のあるものだ、と宣言します。そうです。私たちは最高のアーチストである神様が造った最高の傑作品なのです。ゴッホやピカソの絵がどんなに高価でも、神さまの傑作品には適いません。神さまは私たちにそれほどまでにご自身の愛と情熱を一人一人に注ぎ込んでくださっているのです。

どうでしょうか。「思い悩むな」と言われるイエス様の言葉の意味が少し理解できたのではないでしょうか。今日は是非神様の創造の御業に目を留めてみましょう。そして神さまが私たちに注いでくださる愛を存分に受け止めてみませんか。


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