週報から このページでは毎週週報に掲載する牧師コラムを紹介します。


2012年10月7日 懐かしさ
 (主任牧師 東風平巌)

私たちは年を経るごとに、「古き良き時代」を懐かしむものです。「昔はこんなだったねえ」と語り合うことが多くなったと思いませんか?懐かしいと思う気持ちは不思議なものです。たとえ暗く悲惨な戦争の時代を過ごされた方でも、その記憶の中に必ず一つや二つ楽しかった思い出が隠されているものです。そのことを思い出すと、何とも言えない不思議な気持ちに満たされます。

聖書の中にでてくる「懐かしい」でまず思い出すのは、エジプトの宰相となったヨセフがカナンから来た兄弟たちに会い、懐かしさのあまり隠れて泣く場面です。懐かしさが込み上げると涙を流すのは洋の東西や時代を問わず、人間の自然な姿ですね。

今日のエズラ記3章には、バビロンによって破壊された神殿の基礎をゼルバベルとイエシュアの指揮の下建て直すシーンが描かれています。バビロンに捕囚として捕らわれていた70年もの間、ユダのエルサレムは完全に荒れ果てていました。しかしついに祖国への帰還が許された民は、まず真っ先に、彼らの信仰の象徴である神殿を建て直しに取り掛かりました。

まず礼拝が捧げられ、資材が集められ、技術者の手によって建築工事が始まります。そしてついに神殿の基礎ができあがった時、民は抑えきれなくなって神への讃美の声を上げます。何故でしょうか。70年前の神殿の姿を覚えている長老たちが、懐かしさのあまり大声で泣き出したのです。素晴らしく感動的な場面です。聖書の物語でも、これほど人々の気持ちがひしひしと伝わってくる場面はそうそうあるものではありません。その声は喜びとも叫びともつかぬ声となって辺りにこだましました。

私たちが最初にイエス様を受け入れた時、信仰の確信を得、罪が許され、救われたことを実感した時、きっと大きな感動があったと思います。しかしその感動は時の流れと共に薄れ、いつしか神の恵みも忘れてしまいがちです。

今一度、あなたが救われた時の喜びを思い出してみませんか。「そうだ。私はあの時、あのようにしてイエス様に出会い、救われたんだ。」と懐かしく思い出してみましょう。聖書は私たちに「初めの愛に帰る」ように勧めています。喜びを持って抱いた純粋な神様への思い、イエス様への愛を思い出し、私たちも喜びと讃美の声を上げましょう!


10月7日 基礎作り (主任牧師 東風平巌)

中学生のころ吹奏楽部に所属しトロンボーンを吹いていました。楽器を演奏する喜びは何物にも代えがたいものがありましたが、練習はいつも楽しいことばかりではありませんでした。毎日2〜3時間くらいある部活の時間の半分以上は基礎練習です。腹式呼吸で息を思いっきり吸い込み、おなかの支えを意識しながら一つ一つの音をぶれないようにしっかりと出すロングトーンという練習。下のF(ファ)の音から上のFの音まで一つ一つ丁寧に吹き、一往復すると、それだけで1時間かかります。部員全員がその練習を毎日義務付けられていました。

すぐにでも新しい曲を自由に吹きたい年頃。しかし部活ではそれは赦されませんでした。ところが最後のコンクールで金賞を受賞した時、その基礎練習の意義がわかりました。審査員が「サウンドが素晴らしい!」と絶賛してくださったのです。あきらめずに基礎を磨いてきたことをとても嬉しく思ったものです。

基礎練習とか、基礎作りとか言われているものほど地味で忍耐を要するものはありません。誰にも見てもらえず、評価もされず、本当に意味があるのかと、疑問に思ったりするものです。しかし基礎作りを忠実に続けていくならば、必ずその結果が後になって現れます。氷山のように表に現れている部分(結果)はごく一部で、大部分(基礎)は水面下に隠れていて誰かに意識されることもないのです。

何度も語ってきていますが、信仰生活の基本は御言葉と祈りです。これなしには、どれだけ表向きに立派に見えても肝心なところでぐらつくのです。そして問題が起きた時に対処ができません。

もちろんこの基本を身に付けるには楽しいことばかりではありません。御言葉を読み続け、祈り続けるということはなんと地味で忍耐を要するものでしょうか。投げ出したくなる気持ち、わからないでもありません。しかし、これを積み重ねていくことでしか得られないものがたくさんあります。蓄えた御言葉が実現し、祈りは聞かれるという結果を生みます。人生が豊かになります。神様の約束です。この基本を今一度確認してみませんか。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」 (詩編119篇105節)


10月21日 愛のいろいろ (主任牧師 東風平巌)

最近、二度ほど一人でカラオケに行きました。「牧師は暇なんだなあ」と言われると身もふたもないのですが、理由はこの前の説教の冒頭でお話しした通り、子どもの学校行事で歌うことになったからです。

本番の出来については敢えてここでは申し上げませんが、練習をする中で改めて思わされたことがありました。それは、一般の曲(つまり歌謡曲とかポップスとか言われるジャンルの歌)はつくづく、愛や恋の歌ばかりなんだなあということです。それが悪いということではないのですが、あたかもそれが人生のすべてであるかのようです。

ところで愛と恋の違いってなんでしょうか。漢字をよく見てください。愛は中心に心がありますが、恋は下に心がありますね。つまり恋は「下心」というわけです。(笑)冗談はさておき、愛にもいろいろあるのです。ご存知の方も多いと思いますが、ギリシア語には3種類の愛があります。エロスとフィリアとアガペーです。細かく説明すると大変ですが、ものすごく乱暴に要約すると、エロスは肉欲の愛、フィリアは兄弟愛、そしてアガペーは無償の愛です。

カラオケなどで歌われる流行の曲のほとんどはエロスの愛と言っていいでしょう。自分の欲望を満たす愛、相手を欲するだけの愛です。しかし神の愛はアガペーです。それは私たちが誰かに関わらず、見返りを求めずに愛する純粋な愛です。イエス様はご自分を犠牲にして十字架におかかりになったほど、罪びとである私たちを愛(アガペー)されました。

ルカによる福音書10章に登場する「善きサマリヤ人」の譬え話の中で、半殺しにされた人を助けるサマリヤ人の一連の行動はアガペーの愛に基づくものです。自分の財も時間も惜しみなく捧げて、見知らぬ人のために手を差し伸べます。誰にでもできることではありません。しかし、イエス様はこのような行為こそ隣人を愛することだと言い、「あなたも、行ってその通りに行いなさい。」と言われました。それは紛れもなく私たち一人一人に向けられている言葉です。

神は愛をもって行動するキリスト者を求めておられます。「私にはできない。」とおっしゃる方が多いですね。もちろん私たちは弱いです。信仰も足りません。しかしだからこそ、助け主なる聖霊に委ねて歩む必要があるのです。今日も何か一つでも愛をもって行動できるように、神に祈ってみてはいかがでしょうか。


10月28日 カミサマハワタシノチカラデース! (主任牧師 東風平巌)

アメリカ大リーグではワールドシリーズ真っただ中。一方日本でも日本シリーズが始まりました。今年私が個人的に応援していたのは阪神タイガースでしたが、下位に低迷してしまったのが残念です。

特別阪神ファンというわけではないのですが(個人的にはソフトバンクが一押しです。来シーズンは東浜投手に期待!)、助っ人外国人選手であるマット・マートン選手とスタンリッジ投手を応援していました。彼らは選手として優秀であるばかりでなく、とても福音的なクリスチャンとしても有名です。今年の2月に宜野座村でキャンプをした際には、胡屋バプテスト教会で特別集会を開き、彼らの人生において野球以上に大切にしているイエス様への信仰について熱く語ってくれました。

マートン選手が脚光を浴びたのは、彼が来日した2010年にいきなりあのイチロー選手の1シーズン安打記録を塗り替えて日本記録を打ち立てたからですが、それと同時に試合で活躍した後のお立ち台インタビューで、彼が必ず口にする言葉も注目を集めました。それがタイトルの言葉です。

「神様は私の力です!」というのは、恐らく今日の聖書にもあるネヘミヤ記8章10節の言葉「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」に由来するものでしょう。勝利を決定づける一打を放ち、スタジアムの全観客とテレビの前の視聴者が注目する中で、「これは私の力ではない、神様の力ですよ。」と微笑んで神様に栄光をお返しする姿、最高にかっこいいとおもいませんか?

マートン選手が宣言する通り、私たちを造られ、私たちを愛し、私たちを救われる神さまこそは、信じる一人一人にとって確かな力です。さらには御言葉が示すように、その神を喜び祝うことによって、力はさらにみなぎります。何もスポーツのことだけではありません。日々の生活において、主を喜ぶことで生きる力が湧くのです。

喜べない時もあります。祝えない時もあります。でもそんな時だからこそ、神様を見上げましょう。神様が聖霊を通して寄り添って下さり、涙をぬぐって下さり、希望と平安を与えてくださいます。なんといっても私たちにイエス様を下さったほど私たちを愛してくださっているのですから。今週も主を喜び祝い、力を得ることが出来ますように。

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